労働新聞 2007年2月5日号 通信・投稿

単身赴任イン名古屋
非正規を渡り歩く生活

話が違う!契約解除にがく然

派遣労働者 長谷川 健也

 二〇〇四年六月末、十時頃、横浜から名古屋の鳴海駅に始めて降りた。…独り大きなカバンを背負い、空梅雨でうだる暑さの中、寮までわずか十分余りの道のりを、わが人生において、これほど長く辛く感じたことはなかった。それは、五十歳にして初めての単身赴任で、見知らぬ土地と頼れる知人はない不安感からであろうか?
 そして、管理人から部屋の鍵を受け取り、種々の説明を聞き、部屋に入った。二階で一DK、家賃月四万八千円の内、会社が六割を負担する。
 午後には布団等の荷物が届き、整理し、明日からの独り暮らしの生活準備をした。
 なぜ、名古屋に? 理由は、前会社をリストラされ約二年間の辛い失業生活が続いたこと。年齢制限で正社員雇用はなく、数社の派遣会社に登録した。それでも関東圏では折り合いが少なく、三カ月後、名古屋の産業機器製造メーカと面談し、採用された。雇用形態は契約派遣で一年更新とし、月給制で賞与はなし。面談から二週間後には名古屋で業務開始となる。早速、承諾書に記載し、引っ越し準備をした。
 単身赴任をする上で、六歳年下の妻と高校二年の息子は、両手を上げて喜び
「ワーイ(^.^) ウザいのがいなくなる」…返す言葉はなかった(-_-)。
 職場は名古屋市内で、名鉄線と徒歩で通勤時間四十分ぐらい。 仕事内容は開発メカ設計でプロジェクトチームに入り、装置のデバッグ(プログラムのミスを修正)まで担当。職場の雰囲気は愛地球博に参加企業のこともあり、活気が満ちあふれていた。
 仕事初日から三日間は体調不調で下痢と嘔吐に見舞われた。水に合わなかったのか? 猛暑のためか? 古戦場武者の亡霊か? わからない。…夏は暑くて眠れない、冬は寒くて眠れない。やがて一カ月余りで仕事とホームシックを克服し生活環境にも慣れたが、鬼嫁とは連絡せずにいた。理由は男のプライド!
 そんな中、週末の余暇に名古屋城・白鳥庭園・博物館・各美術館・熱田神社を訪れた。自然と語り合い、自分を見つめ、孤独を克服した。  
 話は戻るが、業務は開発設計で何台か製作して機能評価をし、営業会議でプレゼンし、顧客ニーズ・価格・競合機等を検討して製品化するもの。チームも機種ごとに分かれ、私はA機種の○○部構想設計図を検討し組図・部品図を作成、手配し現品を評価し、書面にまとめて提出した。
 チームは社員七人に派遣は私を含め二人だった。その派遣者は独身、四十歳代後半、北海道出身で前職は○○技研工業自動車会社のエンジン設計部に勤務していた。しかし、リストラされて派遣雇用とのことだった。その彼もチームに溶け込めず六カ月間で契約解除された。理由は「レベルが低い」のと、「人間性の問題」とか?
 そこで私は他のチームに地元派遣社員を知り、親しくなった。方言を覚えたり、部署のレクレーション(ボーリング・飲み会)等にも参加し、コミニケーションを取りった。
 仕事は工程期間が短く、設計変更も多い無理な要求をこなし、量産体制図面までまとめた(一カ月の残業は四十〜五十時間ぐらいで手取り三十六万円)。   
 ところが 〇五年八月末に事前通告され、九月末で契約を止められた。理由はプロジェクトの終了とコスト低減で、量産はすべて中国支社に委託するとのことだった。最初の面談では口答で二年〜三年間の長期働けるはずだったのに…私はがく然とした。
 大企業は、こうした派遣社員でまかない仕事をこなして、大きな利益を上げている。企業とその正社員は優遇を受けるが、漏れたわれらが切り捨てられることに遺憾を感じる。
 政治は国民全体の生活を優先し、豊かにする社会にして行くべきだと私は思う。
 単身赴任をして不安な点は、契約派遣のためいつ解除されるのか? また、病気や事故にあった時の健康面、派遣者同士の陰口。
 良い点は、自己管理能力を高められて余暇の時間がもて、鬼嫁と離脱し家庭が平和になったこと。また、楽しみは帰省して兄弟や親族と会うこと。気がかりは今年八十四歳になる母のことだ。
 ちなみに、現在は半田市の半導体関連会社で「派遣」をしてる。横浜にいつ戻れることか……。


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