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労働新聞 2007年2月5日号 通信・投稿
社会批判忘れた文化・芸術
労働者に支えられた
階級的芸術の復興を
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■芸術に問われる階級性
文化・芸術と言われるものには、すべて階級性が内包されています。演出家はその時代、時期によってどの部分を強調するかが問われます。私の専門とするオペラも例外ではありません。
たとえば著名なイタリア人作曲家ベルディ(一八一三〜一九〇一)のオペラ「椿姫」です。主人公のヴィオレッタは最下層に生まれ育ち、極貧のため十六歳で旅籠(はたご)の主人の愛人になり、やがてパリ社交界の高級娼婦となって宴で出会った若者に愛されて結婚し、若者の父親の反対にあって引き裂かれ、肺炎で亡くなるというストーリです。これを悲惨なお涙頂戴の女の一生として済ませるのか、それとも下層出身の彼女が自らの人生を切り開いた勝利者として描くのか、言い換えれば支配と被支配のどちらの側に立って演出するのかが問われます。
また歌劇「アイーダ」の例では、エジプト政府から依頼されたベルディは、古代エジプト王国の栄光の時代のエチオピアとの戦いを題材にして作りましたが、一八七一年にカイロで初演されたときは、エジプトの王女は戦いに勝利するが愛においては敗者となるというドラマをオブラートに包むのではなく、敗者で奴隷となったエチオピア民衆の苦しみを浮き彫りにしました。民衆の苦しみの部分をどう演出するのかが問われましたが、カイロ市民は熱狂的に受け入れたと伝えられています。
ギリシャ神話を題材としたオッフェンバック(一八一九〜八〇)は喜歌劇「地獄のオルフェ(天国と地獄)」(序曲は運動会でよく使われています)で、神々と人間の支配者であった全能の神ジュピターを世論の側からこき下ろし批判する構成にしています。
これらの作品を理解する上で当時の社会状況、労働者階級が主体となって闘ったヨーロッパの二月、三月革命の影響を無視することはできません。革命の息吹はヨーロッパ各地に飛び火し、「結婚行進曲」で有名な歌劇「ローエングリン」の作曲者ワーグナー(一八一三〜八三)でさえもドレスデンでの蜂起に参加しています。
■社会矛盾と対峙する力
また文化芸術は、他者を排除するのではなく過去の歴史の展開の中で異なる立場であった者が互いの存在を認め合う共生と平和への希求、人類が生きてゆく展望を演出する役割があると思います。作者の意識の根底には、社会や人間のあり方を問いかけていること、とりわけ革命の時代の作品には社会矛盾をあばき、根源的な問題へ迫っているものを見ることができます。
カール・マルクスの生きた十九世紀は、すべての者がぶつかりあう時代でした。社会情勢と芸術は一体の関係にあり互いに影響し合っています。それぞれの作品を史的唯物論の観点から分析してみる必要があると思います。
しかしオペラのように劇場でしかも多人数で行われる芸術は多額の費用がかかり、またメシを食っていくことは困難であるという問題が依然としてあります。このため王侯貴族や国のひ護のもとでなければ活動が成り立ちにくいという歴史があり、支配層に取り込まれていった弱点を持っています。
そうであっても、オペラと能や文楽、歌舞伎など現代日本の伝統芸能と比較してみると、後者は家元制があって家元の養子にでもならないと外部の者は参加できませんし、欧米人が歌舞伎を高く評価して歌舞伎役者になりたくても参加することはできません。また批判者となり、社会の根本的矛盾を明らかにすることは困難ですが、オペラは必ずしもそうではありません。
ところで私の活動の中でここ数年、国や自治体の劇場などの文化施設に対する「指定管理者制度」問題に当面しています。「構造改革」で管理運営が公共から民間に移されるわけですが、利益の薄い施設であってもNPO(非営利団体)など中小零細の企業や団体が排除され、大企業が参入してきています。そして「市民のための」と称して日本の古典芸能を優先する傾向が見られます。それ自体は悪いことではありませんが、しかし門外漢の市民はこれらに参加し出演をすることはできず、またせっかくの施設も死んでしまいます。大資本の文化芸術への独占と支配が残るだけです。
本来の芸術は社会矛盾と対峙(たいじ)し、民衆に影響を与えるものであるはずです。未来への希望や展望を写し出す原動力となるものでなければならないはずです。
かって社会主義のソ連や東欧で歌劇やバレーが盛んだったころ、日本でも労働組合が運営に参加した時代がありました。しかし今日、ソ連が崩壊し労働組合の組織率が低下する中で、支配層に好都合で無批判な芸術が幅をきかせています。時代の変革期であるこんにちこそ、労働者階級に支えられた文化芸術の復興が切実に求められていると思います。
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