センセイが逝ってしまってから、正確に1年と2カ月が過ぎた。
正式には長島正弘さんであるが、センセイ、と僕は呼んだ。ほかの人が長島と姓をつけて呼ぶときも、必ず、長島センセイ、となった。
1979年7月に僕たちは知り合った。彼が東京の八王子で小学校の教師をしていたので、自然にそう呼ぶようになったのである。
センセイは去年の10月5日午前1時半、入院先で亡くなった。前夜、容態急変の知らせを奥さんから受けて見舞ったときには、ガンが肺に転移していたのか肺炎を発症していたのかわからないが、肺がほとんど機能していないようだった。吸入を受けている酸素をたとえ1ccでも逃さないぞというように、全身を激しく使って呼吸するのに精いっぱいで、
「センセイ!」
と大きな声で呼んでも反応してくれなかった。そして、僕たちがいったん病院をあとにした二時間後、亡くなったのだった。五十三歳だった。
僕がセンセイと最後に口を利いたのは、亡くなるひと月半前の八月十九日だ。
92年3月に教師を辞めた彼は、「スペースワーカーズ」という施設をつくり、不登校の生徒や障害をかかえる子供たちの世話をした。その後、山梨県の大月に移り、ここ2年ほどはマンションの管理人をしながら染色や織物をしていた。大月を訪ねる前の日に、電話をかけてきて「何が食いたいか」と聞くので、
「煮魚」
と答えると、
「刺し身とかすしは?」
と重ねて聞いた。
「やっぱり、煮魚だ。それに、ビールとワイン」
電話の声が小さくて、しかもかすれてよく聞き取れないので、
「もっと大きな声を出せよ」
と言うと、
「声が出ねーんだよ」
と、きれぎれに答えた。 翌日、センセイの住む管理人室を訪ねると、金眼鯛(たい)の煮付けが用意してあった。 どうも様子が違う。立ち上がって棚からグラスを取ろうとするのだが、力なく、センセイの背中が少し曲がり、首も縮んで見えた。
「センセイ、どうしちゃったの。首が縮んじゃったのか」 と冗談めかして言うとと、 「飲み始めてから話す」 と絞り出すような声。僕に酒を勧め、「きついので横になるから」と、センセイは話し始めた。
その年の四月、食道ガンと診断され、僕が会ったときには尾骨にまで転移しており、副作用で精神を乱されるのを避けるため最低限の放射線療法を受けているという。
ホスピスに入ったらみんなに知らせるが、それまでは内緒(ないしょ)に、と言っていたのだが、センセイはちょうどその一カ月後にホスピスに入り、亡くなる直前になってやっと僕に連絡するよう奥さんに言ったのだった。
センセイは太った体に似合わない小さな革の鞄をいつも持ち歩いていた。タバコと文庫本を入れればいっぱいになりそうな小さな鞄である。 ある年の正月、二人で東京駅の地下にあるサウナで「垢(あか)こすり」(それはゴールデンコースという豪華なものだった)をしてから、日本橋室町の「砂場」、神田須田町の「まつや」と、そば屋のはしごをした。そのときもセンセイはあの小さな鞄をわきに挟んでいた。絶えず酔っぱらいながらも落としたことはない。
センセイが何を入れていたのか、のぞいたことはない。だが、センセイと二人でよくやった小さな「むちゃな行い」のことを懐かしく思い起こすたびに、あの鞄が気になるのである。
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